大判例

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名古屋高等裁判所 平成元年(ネ)604号 判決

控訴人(附帯被控訴人)

右代表者法務大臣

田原隆

右指定代理人

大圖玲子

外七名

被控訴人(附帯控訴人)

亡山内米子訴訟承継人

山内良浩

右訴訟代理人弁護士

水野幹男

竹内平

主文

一  原判決を取り消す。

二  被控訴人の請求を棄却する。

三  本件附帯控訴を棄却する。

四  訴訟費用は第一、二審を通じて被控訴人の負担とする。

事実

一  申立

(控訴人)

1  控訴につき

主文一、二、四項同旨。

2  附帯控訴につき

主文三、四項同旨。

担保を条件とする仮執行免脱の宣言

(被控訴人)

1  控訴につき

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

2  附帯控訴につき

原判決を次のとおり変更する。

(一) 被控訴人(附帯控訴人)が亡山内治一の死亡につき国家公務員災害補償法による遺族補償給付を受ける権利を有する地位にあることを確認する。

(二) 控訴人(附帯被控訴人)は、被控訴人に対し、別紙「遺族補償年金・給付金計算書」の年金支給額欄及び給付金支給額欄記載の各金員及びこれに対する支払日欄記載の日より支払済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

(三) 控訴人は、被控訴人に対し、金二〇〇万円及びこれに対する昭和五二年一一月一八日以降支払済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

(四) 控訴人は、被控訴人に対し金一〇〇万円及びこれに対する昭和五二年一一月一八日以降支払済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

(五) 控訴人は、被控訴人に対し金五五万二四二〇円及びこれに対する昭和五二年一一月一八日以降支払済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

(六) 控訴人は、被控訴人に対し金三二万四〇〇〇円及びこれに対する昭和五七年四月一日以降支払済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

(七) 訴訟費用は第一、二審とも控訴人の負担とする。

(八) 右(二)乃至(六)につき仮執行宣言

二  主張

当事者双方の法律上、事実上の主張は、左に付加訂正するほかは原判決事実欄の第二 当事者の主張(原判決A2丁裏三行目からB40丁裏八行目まで)と同一であるからこれをここに引用する。

1  原判決A2丁裏六行目「である。」の後へ「被控訴人は平成三年一月二四日死亡し、その相続人である長男山内良浩が、被控訴人の控訴人に対して有する国家公務員災害補償法に基づく債権を承継した。」と加える。

2  原判決A36丁表一行目「原告は亡治一の妻として」を「被控訴人は、亡治一の妻の死亡により、その地位を承継したので、」と改め、同四行目の後へ改行して左のとおり加える。

「被控訴人が国家公務員災害補償法による遺族補償給付を受ける権利を有する地位が確認された場合、被控訴人は次のとおり同法(以下単に「法」という)、人事院規則(以下単に「規則」という)にもとづき、遺族補償年金、遺族特別給付金、遺族特別支給金、遺族特別援護金、葬祭補償、奨学援護金の各具体的請求権が発生するので、被控訴人は左記の各給付請求権を控訴人に対して取得した。よって、附帯控訴により別紙「遺族補償年金・給付金計算書」の各支給額欄記載の金員及び支給日欄記載の日より年五分の割合による遅延損害金の支払、遺族特別支給金、遺族特別援護金、葬祭補償金、奨学援護金及び各遅延損害金の支払を求める。

(一)  遺族補償年金 金二五一四万四六二一円

(1) 遺族補償年金の請求権者は法第一六条にもとづき、亡治一の妻である亡山内米子である。

遺族補償年金額は法第一七条にもとづき、遺族補償年金を受ける権利を有する者と生計を同じくしている遺族補償年金を受けることができる遺族の人数の区分により決定される(法第一七条一項本文)。

亡治一死亡当時、亡治一の収入によって生計を維持していた者は妻米子、長男山内良浩(昭和三五年二月一九日生)、および次男山内良哉(昭和三七年八月二八日生)の三名である。

一八歳以上の子は遺族年金を受けることができないので法一七条第一項にもとづき支給される遺族年金額は長男および次男が一八歳に達する時期を境として次のとおり改定されることとなる。

(Ⅰ) 昭和五二年一二月から同五三年二月まで

妻、長男、次男の三人であるので、平均給与額に三六五を乗じて得た額(以下「平均給与額の年額」という)の一〇〇分の五六に相当する額

(Ⅱ) 昭和五三年三月から同五五年八月まで

妻・次男の二人であるので、平均給与額の年額の一〇〇分の五〇に相当する額

(Ⅲ) 昭和五五年九月以降

妻一人であるので、

昭和五五年九月から同年一〇月まで

平均給与額の年額の一〇〇分の四〇に相当する額

昭和五五年一一月から同五九年三月まで

平均給与額に一五三を乗じて得た額(法一部改正-昭和五五年法律一〇一号-による遺族補償年金水準の改善)

昭和五九年四月から平成三年一月まで

平均給与額に一七五を乗じて得た額(五五歳以上の妻)

(2) 平均給与額について

亡治一の平均給与額は九二〇七円である。

(3) 遺族年金は物価等の上昇にともないスライド調整されてきた。

昭和六〇年三月三一日以前には規則一六-〇(職員の災害補償)一九条に定める率(昭和五二年四月一日から同五五年七月三一日までは一〇〇分の一一〇、同年八月一日から同六〇年三月三一日までは一〇〇分の一〇六)を平均給与額に乗じて得られた金額が毎年四月一日(昭和五五年八月一日から同年一一月三〇日までは八月一日)に補償を行うべき事由が生じたものとみなして、一五条又は一六条の規定を適用した場合に得られた金額に満たないときは、同日以降の年金たる補償に係る平均給与額は、これらの規定により得られる金額とされていた。

昭和六〇年四月一日以降は法附則22、規則一六-〇第三三条の十、同四三条にもとづき人事院公示によってなされることとなった。第一回目の人事院公示は昭和六二年三月三一日に人事院公示第七号として公示され本件の場合のスライド率は一〇二とされ、第二回目の人事院公示は平成二年三月二二日人事院公示第四号として公示され、本件の場合はスライド率は一一〇とされた。

本件について、右のスライド率にもとづきスライド調整した結果得られた平均給与額は次のとおりである。

昭和五二年一二月から同五五年七月まで

九二〇七円

同五五年八月から同五六年三月まで

九八五〇円

同五六年四月から同五七年三月まで

一万〇四九八円

同五七年四月から同六〇年三月まで

一万一一六九円

同六〇年四月から同六二年三月まで

一万二〇六三円

同六二年四月から平成二年五月まで

一万二三〇五円

平成二年六月から同三年一月まで

一万三二七〇円

なお、右支給期間は、支給すべき事由が消滅した月で終り、本件においては平成三年一月末日である。

(二)  遺族特別支給金 金二〇〇万円

昭和五二年当時施行の規則一六-三(災害を受けた職員の福祉施設)第一九条の三第一項第一号に基づき、亡治一の配偶者である亡米子に支給されるべき金員

(三)  遺族特別援護金 金一〇〇万円

昭和五二年当時の規則一六-三第一九条の五「災害補償制度の運用について」(昭和四八・一一・一職厚-九〇五人事院事務総長)第一八の11(2)アに基づき亡米子に支給されるべき金員

(四)  遺族特別給付金 金五〇二万八九八三円

規則一六-三第一九条の一〇にもとづき遺族特別給付金が支給される。

特別給付金額は遺族補償金額の一〇〇分の二〇であり(規則一六-三第一九条の六参照)、その具体的金額は別紙「遺族補償年金・給付金計算書」のうち給付金支給額欄記載のとおりである。

(五)  葬祭補償 金五五万二四二〇円

法一八条、規則一六-〇第三一条により、葬祭補償の金額は、一五万円に平均給与額の三〇日分に相当する金額を加えた金額と、平均給与額の六〇日分に相当する金額とを比較し、多い方の金額を支給することとされているので、五五万二四二〇円が支給されることとなる。

(六)  奨学援護金 金三二万四〇〇〇円

(1) 規則一六-三第一五条及び第一六条により奨学援護金が定められている。

(2) 亡治一が死亡した当時、長男山内良浩は名古屋市立西陵高校三年在学中であった。

同人は昭和五三年四月、愛知大学に入学し、昭和五七年三月、同大学を卒業した。

次男良哉は亡治一死亡当時、名古屋市立若葉中学校三年に在学し、昭和五三年三月、同校を卒業している。

(3) 右在学期間中、昭和五五年三月までは規則一六-三第一五条第二項により支給制限をうけ、昭和五五年四月以降が支給対象となる。

具体的には訴外山内良浩について昭和五五年四月から昭和五六年三月までは一か月につき一万二〇〇〇円、同五六年四月から同五七年三月まで一か月につき一万五〇〇〇円支給されることとなり、その総額は三二万四〇〇〇円となる。

右金額は遅くとも昭和五七年四月一日までには支給されるべきである。」

3  原判決A36丁裏八行目から九行目にかけて「定型外郵便物(ただし、「定型外郵便物」が正しい。)」とあるのを「定型外郵便物(ただし、「定形外郵便物」が正しい。)」と訂正する。

4  原判決A37丁表九行目「同4は争う。」を「同4のうち、亡治一の妻の死亡の事実、被控訴人が相続によりその地位を承継した事実、及び附帯控訴の請求原因のうち遺族補償年金等の額(遅延損害金を除く)およびその法的根拠(奨学援護金の給付開始時期を除く)はいずれも認めるが、その余の公務上死亡に該当する旨の主張はすべて争う。」と訂正する。

三  証拠〈省略〉

理由

一争いのない事実

請求原因1(被控訴人の地位)及び2(亡治一の死亡)の各事実、被控訴人の死亡及び訴訟承継人の承継の事実、亡治一が本態性高血圧症を基礎疾患として有し、亡治一の直接の死因である脳出血が右基礎疾患の憎悪によるものであることはいずれも当事者間に争いがない。

二国家公務員災害補償法一条の公務上の災害(死亡)の意義

人事院規則一六-〇「職員の災害補償」第二条は、公務上の災害の範囲として公務に起因する死亡並びに別表第一に掲げる疾病を規定しているから、亡治一の死因である脳出血が別表第一の八号の「公務に起因することの明らかな疾病」に該当するものであることが必要である。

右の公務起因性が認められるためには、公務と死亡との間に相当因果関係が存在することが必要であるが、相当因果関係があるというためには、公務に従事していなかったならば、当該疾病は生じなかったであろうという条件関係があるだけでは足らず、当該疾病のもろもろの原因のうち公務が相対的に有力な原因であったことを要する。しかし公務が最も有力な原因であることまでは必要でなく、他に競合または共働する原因があって、それが同じく相対的に有力な原因であったとしても相当因果関係を肯定する妨げとならず、公務の相対的有力性については、経験則に照らして当該公務が当該疾病(脳出血)を生じさせる危険があったと認められるか否かにより判断するべきであり、基礎疾病として脳出血の最大の危険因子である高血圧症に罹患している場合でも、右相対的有力性理論に修正を加える必要はないものと解すべきである。

三本態性高血圧症及び脳出血と公務

〈書証番号略〉、当審証人奥平雅彦の証言を総合すると、亡治一の死因は、発症時の経緯から考えて脳出血のうち激症型小脳出血か脳幹出血が強く疑われること、脳出血の最大の危険因子(リスクファクター)は高血圧であり、とくに最低血圧が高いほど脳出血になり易いとされ、しかも高血圧症の放置や治療中断が発病に結び付き易いとされていること、本態性高血圧症は他に明確な原因を有しない原因不明の高血圧症の総称であり、その発症には遺伝因子、環境因子が関与するものであり、本態性高血圧症を憎悪させる環境因子として食餌特に塩分及び蛋白質の量、寒冷、飲酒、喫煙などが指摘されていること、問題の精神的、肉体的ストレス、あるいは疲労の蓄積も疫学的にみると高血圧の憎悪因子ではあるが、これは血圧の上昇につながるという意味での関連性で考えられ、定量化して科学的に評価することが困難であり、かつ個々人のそれに対する反応性に大きな差があることから、適当な指標にはなり得ないものとされていることが認められる。

これらの医学的知見を承けて、労働省の認定基準を参考に、医学専門家の意見を徴したうえ、行政上の認定指針として、人事院職員局長通知昭和六二年一〇月二二日職補五八七号が発せられた。右通知の内容は、当該脳、心疾患が前記別表第一の八号の公務に起因することが明らかな疾病と認められるには、発症前に、(略)日常の職務に比較して特に質的又は量的に過重な職務に従事したことにより、医学上当該脳血管疾患の発症の原因とするに足る精神的又は肉体的負荷(過重負荷)を受けていたことおよび過重負荷を受けてから症状が顕在化するまでの時間的間隔が医学上妥当と認められることが必要であり、右時間的間隔の基準として発症に最も密接な関連を有する発症前日から直前までの勤務状況、発症前一週間の勤務状況(この間に過重な職務が継続している場合には急激で著るしい憎悪に関連がある)、発症前一箇月間の勤務状況(発症前一週間より前に過重な職務が継続していても急激で著るしい憎悪に直接関連したとは判断できないが、発症前一週間以内の職務の過重性の評価の付加的要因として考慮される)を認定調査事項としていること、疲労、ストレスのような個体差があり、未解明の部分が多いものは過重負荷に包含させず、通常割り当てられた職務内容等に比較して特に過重な職務に従事したことによる負荷に限定していることが認められる。

亡治一の死亡時である昭和五二年一一月一七日に適用のあった旧指針は、右の認定指針により廃止されたのであるが、本件については亡治一の脳出血による死亡に対し従事していた公務が相対的に有力な原因となっていたか否かにつき、最近の医学的知見として右認定指針の内容をも考慮して、亡治一の公務により脳出血を生じさせる危険があったと認められるかを判断するのが相当であると解せられる。

四亡治一の職種、職務内容

〈書証番号略〉、原審証人増子勲、同須賀智水、当審証人熊谷修身、同村瀬勉の各証言に弁論の全趣旨を総合すると、次の事実を認めることができ、右認定に反する原審証人川島良一、同河合勲の各証言部分、〈書証番号略〉の記載は採用しない。

1  亡治一は、昭和二年六月二六日生れ、昭和一八年九月津郵便局に採用され、以後郵便内務業務に専ら従事し、昭和四四年四月名古屋東郵便局郵便課主事、昭和四八年一〇月四日市郵便局集配課課長代理、昭和四九年七月東海郵政局人事部厚生課課長補佐(寮務主査・辻町寮長)、昭和五二年七月二六日昭和郵便局郵便課副課長に発令され、死亡時まで三か月二一日間、右職務に在任していた。右経歴から明らかなとおり、亡治一は三四年二か月の郵便局勤務のうち、三年間の寮長以外は郵便内務業務に専念したもので、その実務、特に手作業による差立、配達区分業務には熟達していた。

2  昭和郵便局は、亡治一の発令当時、六課約二五〇名(非常勤、アルバイトを含まず)の職員がおり、郵便課は経理、窓口、通常、特殊、小包の五担当(係)にわかれ、課長、副課長、課長代理各一、主事三名、主任九名、その他職員四二名の合計五七名の常勤内務職員で構成され、経理係は課内の庶務、企画、窓口係は郵便局窓口での郵便物の引受、切手、葉書類の販売、通常係は通常郵便物の差立区分(ポストから取集められ、あるいは窓口係が窓口で引受けた郵便物のうち普通郵便物のみを宛名、行先で区別する仕分け作業)及び配達区分(他局から昭和郵便局に送られて来る郵便物を配達地域ごとに区分する仕分け作業)の担当、特殊係は速達、書留、料金別納郵便等特殊郵便物の差立、到着区分、小包係は、小包類の差立、到着区分をそれぞれ担当していた。

3  亡治一の副課長の職務は、郵便課長の補佐、課務の総括的な管理、業務運行をはかり、課長不在、差支えの際には課長の職務を代行する管理職の非組合員であった。亡治一の前任村瀬副課長は、約一年一一か月在任し、昭和局において、普通郵便物差立集中処理業務を開始した昭和五二年五月三〇日以降、約二か月間右集中処理の担当もしたが、日常的な副課長の職務につき、午前一〇時出勤、課内全般の業務把握、課長への報告、中勤者のミーティングへの出席、業務運行記録表その他の決裁文書の決裁、各係を廻って職員の勤務状況、態度のチェック、業務運行の問題点の把握と解決方法の検討、デスクワークとして臨時的な管掌事務があれば、それを行い、最終便である名天上五号便(午後九時八分出発)については、差立手作業区分の応援、ホッパー、大型郵便物の投げ込み作業を担当職員と一緒に行ない、右最終便への差立を確認した後午後九時一五分ころ退勤するという内容であり、日曜、祝日の日勤の場合にはこれが午後五時すぎの退勤となっていた。

4  亡治一の副課長としての勤務時間は、日曜日、祝日は午前九時から午後五時五分までの日勤、週休日が週一回、それ以外の勤務日(週五日)は午後一時から午後九時五分までの夜勤、勤務時間中に四五分の休憩、二八分の休息時間が与えられていたが、前々任の副課長以来の慣行で、夜勤の日は午前一〇時ころまでに出勤することとなっており、亡治一が着任した際、課長から同様の指示を受けたので、これに従い夜勤日には午前一〇時ころに出勤し(超勤二時間が命令されていた)、差立最終便である名天上五号便(午後九時八分)の発車時間後、身辺を整理して午後九時一五分乃至三〇分に退勤していたので、夜勤日の在局時間は約一一時間三〇分に及んでいた。

5  亡治一の通勤方法は、副課長発令と同時に名古屋市千種区城木町所在の郵政局宿舎が貸与されたので(家族同居)、右宿舎から昭和区桜山町の局舎まで自転車あるいは市バスで通勤し、その所要時間はいずれの場合も約二〇分であった。なお、辻町寮長の時点では、亡治一は家族と共に寮内に住込み勤務していた。

五亡治一の職務の実態

前掲四の各証拠のほか、〈書証番号略〉、原審における被控訴人山内米子の供述の一部(左の認定に反する部分は採用しない)及び弁論の全趣旨を総合すると、次の事実を認めることができ、これに反する〈書証番号略〉の記載、原審証人川島良一、同河合勲の各証言は採用しない。

1  昭和郵便局郵便課では、昭和五二年五月三〇日から普通郵便物の差立業務の機械化に伴い、通常郵便物差立集中処理を開始し、差立作業の大部分が自動機械化されたが、その内容及び差立作業の流れは、原判決の理由C5丁表五行目から同裏九行目までと、同C6丁表一行目からC7丁表七行目までの認定と同一であるから、これをここに引用する。

2  右集中化に伴ない、郵便課の取扱い郵便物数は約二倍になったが、これに伴い郵便課へ常勤職員九名の増員があり、そのうち六、七名を差立業務に配置し、他に非常勤職員(所謂アルバイト)約一〇名を新たに雇い入れ、うち二名をホッパー、他の七、八名を手区分の差立業務に配置し、導入された自動選別取揃押印機、郵便番号自動読取区分機も稼働したため、集中化後二か月を経過した同年七月末には、前記郵便物の増加にほぼ見合う配置がなされ、差立区分業務で当日処理しきれないため翌日に持ち越される不結束数が大量に発生するという状況ではなかったし、少なくとも昭和郵便局あるいは上級局の東海郵政局で、昭和郵便局郵便課の差立区分業務に関し、不結束や残物数の多さが問題となっていた形跡は全く認められない。

因みに控訴人が郵便業務運行記録表(〈書証番号略〉)から、その日に差立できなかった不結束数を拾いあげ、各日毎にまとめた不結束一覧表は別表1のとおりである。右数値には、当日の名天上五号便までに差立できなかったもののみが掲記され、それ以後名千後送便(午後九時五五分)で千種郵便局から昭和郵便局に送られてくる郵便物数は含まれていないが、これは当日処理がもともと予定されていない分であったから、当日の不結束数には右便で送られて来た物数を加算すべきでない。従って、午後九時八分の名天上五号便に差立できなかった数値、即ち午後九時から一〇時までの欄の数字を当日の不結束数とみるのが相当である。そしてこのように算出された不結束の状況は、同年八月一日から一一月一五日までの間に不結束の生じなかった日数が六三日、不結束の生じた日四四日、そのうち窓口で受付けた別納又は後納郵便の含まれない純粋の不結束が生じた日数は七日であったから、不結束の発生が当時恒常的状態であったとか、残物数が大量に発生するに至ったため、郵便課としてその解消が急務とされていたとの事実は認められない。

3  亡治一は、発令後二度の管理職研修を経て八月一〇日ころから本格的に副課長としての職務についたのであるが、その時点では集中化による差立業務も前記2のとおり比較的落着き、また郵便物の季節的変動からみても物量の少ない時期であったが、亡治一は現場での郵便内務業務に熟達し、管理統轄事務は不得手であったため、副課長の職務のうち課長の補佐や課員の指導監督といった管理職としての本務には熱心でなく、専ら現場における郵便物の処理、中でも差立業務の応援に没頭するように職務を遂行していたので、増子課長は、従前の副課長の勤務態度と異なり、差立現場の一実務要員化した亡治一の執務態度に不満を抱き、何度も現場の作業よりも本来の管理業務に中心を置いて、副課長職を処理するよう注意していたが、同人はこちら(差立業務等)の方が得意だからと応答して改めようとしなかった。

4  このように亡治一は、副課長の職務のうち管理的職務に重きを置かず、現場業務、特に差立区分業務の処理に殆んど全精力を注いでいたものと認められるのであるが、自動化に伴ない、手作業による差立区分が必要な郵便物は、予備選別による定形外物、自動選別取揃押印機で排除された定形外物、押印不能物、郵便番号自動読取区分機が排除した読取不能物、窓口引受物のうちの一部、速達、書留、事故郵便物であったが、自動化前と比較して、常勤職員の増員、非常勤職員の雇い入れ(前認定のとおり郵便課で合計一九名以上、うち差立区分に配置された人員は一五名程度)、自動機械化により、一人あたりの手作業による差立区分数には大きな変化がないと認められる上、差立作業そのものは区分棚の前に立ち約六〇の区分口へ郵便番号や宛先を見ながら郵便物を区分して入れる単純な作業であり、アルバイトの高校生、主婦でも三日間位で習得できる内容であったこと、右差立区分作業以外に機械にかからない郵便物を排除するホッパー作業、定形外郵便物、速達の手作業による消印作業、区分終了郵便物をあて先局毎にまとめるは束作業、郵袋の締切りと発着台までの運搬作業などが郵便課の現場作業として主なものであり、亡治一が差立区分以外にこれらの作業も応援していたことは推認できるが、これらの作業にはそれぞれ担務者が配置され、特に作業上の滞留が集中化以後問題となっていた形跡はない。

ただ、夜勤(週五日)の際、午後九時八分の名天上五号便には、当日の取集郵便物を全部差立することとなっており、同便に差立できなかった郵便物は、いわゆる当日の残物数、あるいは不結束数とされることから、午後五時四八分の名天上四号便以後右五号便発車までの郵便課の現場は他の時間帯と比べれば、相当繁忙であったことは認められるが、五号便の不結束分は、翌日の名天上一号便で差立することができ、更に不結束分が増加滞留する状況ではなく、亡治一の就任後このことが格別問題となっていたこともなかったこと、また副課長が不結束について直接責任を負う立場にはなく、現場において亡治一の応援がなければ、残物数や不結束数が激増するといった緊迫した情況ではなく、その応援をあてにして作業をしていたことも見受けられなかった。

5  死亡に近接した時期における亡治一の勤務時間及び証拠にあらわれている前記差立業務以外の具体的な職務についてみると左のとおりである。

(一)  死亡前一か月の状況

昭和五二年一〇月一六日(日)日勤、午前九時出勤、午後五時五分ころ退勤

同月一七日(月)週休

一八日(火)夜勤、午前一〇時ころ出勤、午後九時一五分ないし三〇分ころ退勤

一九日(水)夜勤、一八日に同じ

二〇日(木)夜勤、一八日に同じ

二一日(金)夜勤、一八日に同じ

二二日(土)夜勤、一八日に同じ

二三日(日)日勤、一六日に同じ

二四日(月)出張(出張先、用務不明)

二五日(火)週休

二六日(水)夜勤、一八日に同じ

二七日(木)夜勤、一八日に同じ

二八日(金)夜勤、一八日に同じ

二九日(土)夜勤、一八日に同じ

三〇日(日)週休

三一日(月)夜勤、一八日に同じ

同年一一月一日(火)夜勤、一〇月一八日に同じ

二日(水)夜勤、一〇月一八日に同じ

三日(祭)日勤、一〇月一六日に同じ

四日(金)夜勤、一〇月一八日に同じ

五日(土)夜勤、一〇月一八日に同じ

六日(日)週休、寮対抗ソフトボール大会の応援

七日(月)夜勤、一〇月一八日に同じ

なお、一日ころから約一週間にわたり郵便協力会の設立総会(一一月一六日開催)案内文の宛名書き約一五〇通と、同会の会員である法人約一〇〇社から納入された会費を現金出納帳に記帳する事務を担当したが、局内でこれを処理せず、自宅へ持ち帰って被控訴人に書かせていた。右の事務は、副課長の担当職務の当然の範囲に属するものであり、かつ、その事務量からみて、勤務中に処理しようとすれば、容易に完了し得たと認められる。

八日(火)夜勤、一〇月一八日に同じ

(二)  死亡前一週間の状況

一一月九日(水)夜勤、一〇月一八日に同じ

一〇日(木)夜勤、一〇月一八日に同じ

一一日(金)夜勤、午前一〇時ころ出勤、夕方から主任以上を集めて年末繁忙期にむけての打合せ会が開催され、亡治一は副課長としてこれに出席し、引続き行われた懇親会、二次会にも参加し、午後一〇時から一〇時半ころまで会場にいた。出席していた増子課長からみて亡治一の飲酒量は相当多いように見受けられた。

一二日(土)廃休(休日出勤)により通常夜勤となる。亡治一は体の疲労を訴え、午前九時ころ増子課長席へ来て休みたい旨申出たところ、前夜遅くまで飲んだので、同課長が「二日酔いか」と尋ねたのに対し、出てくるからいいと直ちに申出を撤回して帰宅し、着換えた上、午前一〇時ころ正規に出勤し、午後九時一五分ないし三〇分ころ退勤した。

一三日(日)日勤、午前九時出勤、午後五時五分ころ退勤

一四日(月)夜勤、午前一〇時ころ出勤、午後九時一五分乃至三〇分ころ退勤

なお、一一月七日ころから約一週間にわたり、年賀はがきの大口注文先へ、同はがきを配送する業務を集配課副課長ら三名位で担当した。具体的には夜勤日(七日、八日、九日、一〇日、一一日、一四日、一五日)の昼間に自転車に二〇〇〇枚(五キログラム)程度を積んで、毎日一、二箇所へ配送していた。配送先は昭和郵便局管内の大口需要者のうち、特に配送を希望する場所であり、遠隔地はなかったし、行先を探すのに困難であった状況もない単純な業務であった。

また、同日退勤後、被控訴人に郵便協力会の現金出納帳の記帳を手伝わせている。

(三)  死亡前日(発症当日)の状況

亡治一は、夜勤の出勤時間である午前一〇時ころ出勤し、午前中は副課長としての通常業務に従事し、午後一時二〇分ころから、長谷川博第二集配課副課長の運転する官用車で、局から約一キロメートル離れた昭和税務署へ年賀はがき約二万枚を配送した。同はがき二万枚は五箱合計約五〇キログラムで、亡治一と右副課長の二人で二回にわけ、右はがきを同署の建物内へ運んだ。午後二時ころ帰局してから通常業務に従事していたが、午後四時四五分ころ集配副課長に眩暈がする旨訴えたもののそのまま業務に従事し、午後六時五〇分休憩時間中夕食をとるため、局から一五〇メートルほど離れた食堂(キッチン和)へ向かい、同食堂の西隣の薬局で頭がふらふらするといって鎮痛剤を購入し、食堂で定食物を注文し、半分ほど食べ残して、午後七時一〇分ころ同食堂を出た後、よろよろしながら又薬局へ入って行き、「わしは血圧が高い。」といって倒れ込んだため、救急車で直ちに安井病院へ搬送され、人事不省のまま、翌一七日午前四時四〇分死亡した。

右当日の午前中及び午後二時から六時五〇分ころまでの亡治一の具体的な業務は明確でないが、前記認定の職務態容からみて、差立区分業務の応援、見廻りにそのうちの大部分を費したことは容易に推認できる。そして当日の差立業務の進捗状況として、取集合計郵便物数五万八七〇〇通、名天上二号便、三号便、四号便の各不結束数はいずれも零であったことから、亡治一が外食に出かける午後六時五〇分ころまでには、差立業務に格別の問題点はなく、その他異常、緊急な内容の業務を負担しなければならない状況も見受けられない。

六亡治一の基礎疾患と健康状態

〈書証番号略〉、当審証人奥平雅彦の証言及び弁論の全趣旨を総合すると、次の事実を認めることができ、これに反する〈書証番号略〉、原審証人喜多村敬の証言部分は採用しない。

1  亡治一は、死亡時五〇歳四か月二一日、身長一五三センチメートル、体重六四キログラム(昭和五二年四月一一日測定)の肥満体であり、喫煙は一日約二〇本、飲酒は日に日本酒二合位の嗜好があった。

2  亡治一は、満四一歳であった昭和四三年五月二九日(当時桑名郵便局郵便課主任)の定期健康診断において、血圧値最大一七四(mmHg、以下同じ)、最小一〇八を記録して血圧異常者区分基準(郵政省健康管理規程による)高血圧A、要指導者と判定区分されて、以後高血圧症を有し、死亡一〇日前の昭和五二年一一月七日の血圧値最大一九一、最小一二一を記録して高血圧B、要治療者と判定区分されるまでの間九年半に亘り、名古屋逓信病院等において医師による診察、降圧剤の投与を受け、中でも昭和四七年六月一日から二二日まで前記病院へ三週間の入院加療を受けたこともあったが、その間の亡治一の健康診断票、高血圧管理票、診療録、指導票の記載から転記したその血圧値(ただし、高血圧重症度判定は日本循環器管理研究協議会の判定基準○ないし4度の五段階によって統一した)及び治療状況は、別表2のとおりである。

3  右表により、脳出血、脳血管障害の最大の危険因子である高血圧重症分類の最高値四度を記録したのは、記録に残っている前後六六回に及ぶ血圧測定結果のうち、昭和四五年五月一二日、一一月一三日、同四七年五月一日、五月二二日、同四八年一月六日、三月一二日(以上の期間の所属は名古屋東郵便局郵便課主事)、同四九年一月二一日、二月四日、四月一五日、同一九日(以上の期間の所属は四日市郵便局集配課課長代理)、同五〇年七月二八日、一〇月三日、一一月八日、一二月一八日、同五一年六月二日(以上の期間の所属は辻町寮寮務主査、同年一月二八日の診療時にはめまい等の自覚症状も訴えていた。)、同五二年一〇月一一日、一一月七日(昭和郵便局郵便課副課長)の合計一七回に及び、所属職務との関連性は乏しいように見受けられる。

他方、亡治一が降圧剤の服用を開始したのは、昭和四六年一月一一日以降であったが、以後全期間を通じ亡治一が適正に服薬したため、血圧がコントロールされたとみられる時期は、昭和四八年一月六日(四度、最大二一〇、最小一一〇)から同年二月二二日(二度、最大一七八、最小九八)まで降圧剤四九日分が投与され、服薬されたとみられる期間、及び昭和五〇年一二月一八日(四度、最大一七〇、最小一一六)から昭和五一年四月六日(一度、最大一五二、最小九八)まで降圧剤七七日分が投与され、連続して服用されたと認められる期間の二度であり、このことは亡治一についても確実に降圧剤を服薬して、その間医師の診察を定期的に受けておれば、血圧のコントロールが可能であり、さして困難ではなかったことが示されている。

4  一方、昭和五一年六月二日に亡治一が受診し(四度、最大一九〇、最小一一四)、死亡のおよそ一か月前の五二年一〇月一一日、肩こり、めまいを訴えて受診するまで(四度、最大一九六、最小一一〇)約一年三か月間、降圧剤七日分を二回にわけて投与され(診察は受けていない)、服薬しただけで、通院治療を受けなかった(昭和五二年四月一一日に定期健診が行われたが、後刻健康管理医による管理票上の指導がなされ、死亡直前一一月七日のハイリスク検査では、最大血圧一九一、最小一二一、要治療であったので服薬するよう指導された。)ので、この間診察及びその指示による降圧剤服薬の中断期間があったこととなるが、亡治一の体重は、中断期間にあわせるように五八キログラム(昭和五一年四月六日測定)から六四キログラム(昭和五二年四月一一日測定)に一割以上も増加した。このことは、昭和五一年四月二一日、健康管理医によって月一回は診察を受け、治療及び日常生活上の指導を受ける旨の指導がなされたのに、これを遵守せず、食餌、運動療法等による血圧のコントロール不良の事実があったことを推認させるものである。なお、原審における被控訴人本人の供述によっても、辻町寮長時代から亡治一は格別の食事療法や運動をした形跡はなく、被控訴人自身も、亡治一の飲酒には気を配っていたが、高血圧の症状について知ろうとしたり、あるいは食事、献立等に配慮したり、留意していた事実はなかったことが認められる。

5  医師伊藤栄一の意見書によれば、亡治一の脳出血発症の主たる原因は、本態性高血圧症に対する病識の欠如によるコントロール不良の結果であるとされ、当審証人奥平雅彦の証言によれば、伊藤医師の意見は医学的に妥当なものであり、そのように見るのが医学的常識であるとしている。

また、亡治一を診察した名古屋逓信病院内科医師近藤純は、血圧のコントロール不良が亡治一の直接の死亡原因である脳出血とかなり高度の因果関係を有する旨の意見を、同内科医師奥平博昭も、亡治一の血圧に対する治療が十分なされていたならば、脳血管障害を予防し得た可能性が高い旨の意見を有している。

七亡治一死亡の公務起因性

前記四、五、六に説示した事実に基づき、亡治一の脳出血による死亡が公務上のものか否か、すなわち前記二で説示したように、亡治一の当該疾病(脳出血)に対し、公務が相対的に有力な原因であったか否かを検討する。

1 亡治一の本態性高血圧症は、昭和四三年五月にその診断がなされて以降、死亡まで九年半の間、高血圧重症度四度(一七回記録)から一度(一五回記録)の間を数回にわたり回帰的に往来していたが、昭和五一年六月から同五二年一〇月まで一年三か月にわたり、亡治一が通院治療を受けず、(後記のとおり病院へ行く余裕がなかったほど繁忙であったとは認められない。)降圧剤の服薬状況(コンプライアンス)が不良であり、その間食餌、運動療法もなされた形跡がなく、体重の著しい増加もあったことからすると、右の間に血圧のコントロールが十分になされず、最小血圧が一二一mmHgという(昭和五二年一一月七日測定)全記録中の最も高い値を示すに至り、遂にその一〇日後に脳出血により死亡したものであること、本態性高血圧症の治療方法として降圧剤服用による血圧コントロールが最も重要であり、これが適正になされれば、血圧上昇を防止し、脳出血に対する最大の危険因子である高血圧を除去でき、死亡に至るような重篤な発症の可能性も少なくなること、ストレス、疲労のような定量化の困難な環境因子を血圧の上昇、症状の憎悪に直接結び付けるのは個人差も大きく、その評価が未だ定まっていないことの諸事情から総合的に考察すると、脳出血の原因となった高血圧症の憎悪は、死亡前約一年三か月に及ぶ血圧コントロールの不良、すなわち定期的な医師の診療を受けず、降圧剤の服薬を殆んどしなかったことが有力な原因であり、公務上のストレス、疲労の堆積は、若し仮にそれがあったとしても、死亡に結び付くような憎悪原因として評価するのは困難であるといわざるを得ない。

2 次に亡治一の公務の実態についてみるに、昭和郵便局へ配置転換後死亡まで三か月二〇日間にわたる同局郵便課副課長としての職務は、勤務体制が週夜勤五日、日勤一日、週休一日のサイクルで繰り返され、夜勤日は午前一〇時から午後九時一五分乃至三〇分まで、勤務時間が約一一時間三〇分に及んでいた点において、時間的には相当過重な勤務であったということができるが、亡治一の前任、前々任の副課長がこれと同一の勤務体制をさして問題もなく勤め終えていること、夜勤日については休息四五分、休憩二八分が与えられ、その他にも昼食時間について四五分以上の休息時間が事実上認められ、これを消化できたこと、右職務のうち管理職の分野について、亡治一が意識的に熱心でなかったこともあって、精神的にとくに過重負荷となるような内容の公務とは認められず、また亡治一が勤務時間の大部分をあてていた差立業務には熟達しており、その円滑な運行、特に差立区分業務の応援、助力は、発令時期からみて、通常郵便物差立集中処理が開始して二か月以上経過し、当初の混乱もおさまり、時季的にも郵便物の少ない時期であったことから、不結束郵便物が増大してその解消が問題になっていたとか、亡治一の応援、助力がなければ差立業務が進行しないといった異常、緊急な状況ではなく、副課長として肉体的、精神的に過重労働と認め得るような業務内容ではなかった。

また、死亡前一か月間の職務内容をみても、特に過重性を指摘できるようなものは見当らず、一一月一二日の廃休のため、週休がなくなり、一一月七日から発症当日の一六日まで連続一〇日間勤務をした(うち夜勤九日、日勤一日)こと、発症前々日及び前日の二一時の不結束数が一万六〇〇〇通及び五〇〇〇通と連続して多かったことがあげられる(前記認定の郵便協力会の宛名書き業務や年賀はがきの大口注文者への事前配送などは勤務時間内に完了し得たものであり、その程度、内容からみてその過重労働性を問題にする余地はないものと認められる)が、この期間内の亡治一の勤務内容が平常と変わりなかったと認められることから、亡治一が右連続勤務や不結束の発生によって、疲労の回復が著るしく困難になったとか、従前に比して公務の密度、緊張度が著るしく高まったという過重な負荷があったとまで認めることは困難である。

また、発症当日についてみると、亡治一の従事した職務内容自体には、脳出血につながるような肉体的負荷や精神的緊張をもたらすものは認められない(当日午後の昭和税務署への年賀はがき約二万枚の配送業務は、官用車により副課長二名で、局からの出発、着局まで四〇分位で完了したとの前記認定経過からすると、過重負荷にあたるとは到底認められない)。

3 もっとも、原審証人川島良一、同河合勲の各証言、被控訴本人の供述によると、亡治一は、昭和五二年一〇月ころから疲労や身体の不調を訴え、局内で勤務時間中にソファにうずくまっていたり、「休ませて貰えんでいかんわ」とか「こんなことをしていたら死んでしまう」、「局を変わることを考えないかんな」という発言を、部下や被控訴人に洩らしていたことが認められるが、これが郵便課における業務によって惹起されたものか、高血圧症が前記認定のとおりコントロール不良により憎悪し、疲労感となってあらわれたものか明確ではない。しかし一〇月一一日に肩こり、めまいを訴えて、逓信病院で受診したこと、同日の血圧値が最大一九六、最小一一〇という高い測定値であったことからみると、右時期の亡治一の疲労感、倦怠感の訴えが職務の過重から来たというよりは、血圧コントロールの不良という前記原因による高血圧症の憎悪によるものと推認するのが相当である。

4 また被控訴人は、控訴人が使用者として、労働者である亡治一の健康状態の異常の有無の確認義務と異常発見時の適正措置義務の二つの内容の安全配慮義務を負担しているところ、控訴人はこれに違反して、亡治一に適切な治療の機会を与えず、また過重な業務に引続き従事させたため基礎疾病が急激に悪化して死亡に至らしめたのであるから、このような場合には公務と死亡との間に相当因果関係があると評価すべきである旨主張する。

右の安全配慮義務が控訴人に課せられているかについては暫く措き、右義務違反を理由とした債務不履行責任を追及する損害賠償訴訟においては兎も角、本件のごとく国の過失の有無を問題としない公務上の災害補償責任を訴求する訴えにおいては、右の安全配慮義務に違反したか否かを公務上の災害の判断基準の一つとして導入することは相当でない。

けだし、安全配慮義務、健康状態の異常確認義務あるいは適正措置義務などは、債務不履行による民事上の損害賠償請求権を基礎づけるために構成された概念であり、過失論の分野に属するものであって、同義務違反による賠償の範囲も賠償額自体に制限がなく、物的損害、精神的損害も含まれ、過失相殺の適用もあるのに対し、公務災害補償制度は、国の無過失責任を前提とし、補償の範囲も公務員の身体的損害に限定され、額も定型化し、補償額の上限も法定されて過失相殺などの制度も認められていないことから、安全配慮義務違反といった過失責任を災害補償責任の分野に持ちこむことは、公務上外という相当因果関係をめぐる問題に限定して、過失責任を問うものではない災害補償制度と根本的に相反することとなるからである。

したがって、被控訴人の右主張は採用しない。

5 以上認定の事実を総合すると、亡治一の死因である脳出血は、亡治一の公務と全く無関係であると断定することはできないとしても、公務の遂行が相対的に有力な原因にあたると評価して相当因果関係があるものと認めることは困難であり、むしろ亡治一の脳出血は、昭和五一年六月二日から同五二年一〇月一一日までの一年三か月間、定期的な医師の診察治療を受けなかったこと、降圧剤の服用をしなかったこと、食事、運動療法等をしなかったことによる血圧のコントロール不良により高血圧症の進展(憎悪)を来したことが最も有力な原因であるとみるのが合理的であると考えられる。

もっとも、〈書証番号略〉(災害報告書)には、所属長が公務災害と認める理由として、「本件は被災者がたまたま夕食の休憩時での事故であるとはいえ、一連の勤務時間の中で発生した事故であり、公務起因性を有する」と記載し、昭和郵便局長の同趣旨の副申書を添付して東海郵政局長(実施機関)に報告していることが明らかであるが、右は所属長が夕食休憩中の事故であるとの理由で直ちに公務起因性を否定しないよう意見を上申したにすぎず、亡治一の従事していた公務と死亡との因果関係を所属長が検討した結果の意見ではないと認められるから、前記認定を左右するに足るものではない。

してみると、亡治一の死因である脳出血が、公務に起因することの明らかな疾病に該当するという証明はなかったことに帰する。

八結論

以上の次第で、被控訴人の本訴請求は理由がなく、棄却を免れない。原判決は不当であって、取消すべきであるから、本件控訴は理由がある。

よって、原判決を取消し、被控訴人の請求を棄却することとし、また被控訴人の附帯控訴も理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき、民事訴訟法九六条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官土田勇 裁判官水野祐一 裁判官喜多村治雄)

別紙〈省略〉

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